「ぷはー!」 美紀は、しあわせそうに、水がたっぷり入った五〇〇ミリリットルのペットボトルをぐいぐいと飲み上げていた。その口元から少しほどこぼれ落ち、彼女の顎から首元をたどって胸元へたどり着いていた。その反動の息をふきあげた。その飲みっぷりは、誰が見ても、非常にうまそうに見えた。 「いやー、うまいねーきったかさん!」 単なるぬるい水ではあるが、彼女はその味わい深さを噛みしめ、紗央梨に同意を求めていた。紗央梨も、同じサイズの水がはいったペットボトルの水を両手に持ち、少しずつ味わいながら飲んでいた。 「ほうじゃ... 続きを読む

 紗央梨のミアータの後ろに止まった警察の車は、サイレンは鳴らさずにはいたが、まだ回転灯を止めることはなかった。室内の二人の男性警官はしげしげと彼女らを見ていた。二人ともサングラスを着用しており、助手席側の若い警官は、紗央梨らと目が合うと、笑顔で返してくれた。運転席側の警官は、やや年配で固めの表情であった。  紗央梨と美紀は彼らと目が合うとすぐに振り戻り、すかさず紗央梨は運転席に座り、美紀は後ろの台からおりて、助手席にちょこんと正座で座った。 「私らは何も悪いことをしていないよね?!」 美紀は少し焦った声で... 続きを読む

 ここから、シーン1の直後にもどる。  紗央梨は、スマートフォンを取り出してみると、時は「午前11時40分」をさしていた。発信履歴をひらいてみると、『BCAA』へ発信が「10時38分」となっている。 ——あんとき、オペレーターは二時間後くらいと言ってたけ……。  紗央梨は、美紀の方を向いた。美紀は相変わらず、シートに砕けたように寄りかかって、扇子をゆっくり仰ぎながら、遠くの地平線をみていた。彼女が仰ぐ風がかすかに紗央梨の頬を伝わってくる。その小さな心地よさを感じつつ、紗央梨は少し微笑んで、答えた。 「……... 続きを読む

 紗央梨がレッカーを呼ぶ前の話となる。  午前十時過ぎ、紗央梨と美紀を乗せた深緑のミアータは、アルバータ州とサスカチュワン州の州境を通り過ぎ、東へ向けてひたすら走っていた。  このクルマは、一応、本格的ツーシーターライトウェイトスポーツカーである。 とは言え、紗央梨の運転はおとなしく、ひたすら、他の車に追い抜かれまくっている。彼女らの目の前には、ただ地平線があるのみで、空は青く、太陽が燦々と輝いている。  ミアータは、セダンやSUVのように快適性を求められておらず、どちらかというと、道路状況をダイレクトに... 続きを読む

 橘高紗央梨(きったかさおり)のカナダ生活約四ヶ月目  二〇一六年六月七日午前十一時半頃(中部標準時間)  最大限に広い空は、こういうことを言うのだろう。  三六〇度凹凸がほとんどなく、見わたす限り草原が地平線までひろがる。その上は、雲一つない青空が全天を覆っている。乾燥した空気は、さらに青さを際立たせていた。  広大な大平原上に、西から東へ二車線の道路が二本、中央を横切っており、それぞれの端が地平線のかなたへ消えていた。長い冬を越え初夏を迎えた肥沃な大地は、新緑の草原に覆われていた。  ここは、カナダ中... 続きを読む

だれもがしあわせになるクルマ。 それは、誰にも負けないほど速く走るわけでもない、 革新的に環境によいというわけでもない、 思いっきり使い勝手がよいわけでもない、 素晴らしくかっこいいデザインをもっているわけでもない、 めちゃくちゃ経済的なわけではない、 ないものずくしだけど、そのクルマは、確かに人をしあわせにしてくれる。 そう、彼女は語った。 ... 続きを読む