第一話 : 大草原の二人 ・ シーン1
橘高紗央梨(きったかさおり)のカナダ生活約四ヶ月目
二〇一六年六月七日午前十一時半頃(中部標準時間)
最大限に広い空は、こういうことを言うのだろう。
三六〇度凹凸がほとんどなく、見わたす限り草原が地平線までひろがる。その上は、雲一つない青空が全天を覆っている。乾燥した空気は、さらに青さを際立たせていた。
広大な大平原上に、西から東へ二車線の道路が二本、中央を横切っており、それぞれの端が地平線のかなたへ消えていた。長い冬を越え初夏を迎えた肥沃な大地は、新緑の草原に覆われていた。
ここは、カナダ中央部、サスカチャワン州とアルバータ州の州境から約十キロメートル離れ、アメリカとの国境から百キロほど北上したところである。この辺りは、北米大陸中央部に広がる大平原上、カナダ屈指の壮大な穀倉地帯の西側の一画である。北米大陸を中央で東西に分けたら、まだ西部に位置するが、ここから太平洋海岸までは直線距離で千百キロメートル以上も離れており、東京から韓国ソウルを直線で結んだのとほぼ同じくらいである。
多くの人がご存知の通り、カナダは北米大陸北部、アメリカの北側に位置し、世界第二位の広大な国土をもつ。新緑の大草原を横切る二本の道路は、その広大な国土を横断し、太平洋と大西洋をむすぶカナダ幹線道路一号線(ハイウェイワン)である。数分間に数台ていどの通行量だが、多岐にわたる種類の車が通り過ぎていく。乗用車、ピックアップトラック、大型商用バン、トラック、大型コンテナを積んだ大型トレーラーなどなど、かすかな砂埃を立てながら、爽快に駆けていた。
通常、サスカチュワン州で、六月の日々の最高気温は、二〇度のラインを上下する程度で、日本の東京と比べると大変過ごしやすい気候であるはずだった。しかしながら、この日は記録的な熱波がこの辺りを覆い、珍しく気温は三十度近くをさしていた。
そんな澄み切った青空で乾燥した暑気の下、砂誇りが舞う大草原のハイウェイの路肩に、深緑のボディにタン色の幌をもつ小さなオープンスポーツカーが停車していた。幌は閉め切ったままだが、運転席と助手席の窓、リアスクリーンは全開、右ドア(助手席側ドア)は思いっきり開けられていた。その車の中には、二人の若い女性が、緊張もプライドも無関係な姿で、汗を身体中ににじませ、シートに砕けたように寄りかかっていた。運転席の女性は、頭をシート肩に寄りかからせ、通り過ぎていく他の車両が遠心点へ消えていくのを虚ろに見つめていた。助手席の女性は、扇子で自分の首元を仰ぎながら身体をねじるようにシートに沈みこませ、両足はダッシュボードの上に載せるよう曲げていた。
彼女らは、訳あってエアコンもつけられない。当然、車内の温度は外気とほぼ同じ。狭い車内なので、二人の流す汗によって湿度が上がり、彼女らの体感温度は気温より上回っている。窓、右ドアを開くことによって室内の換気を促していたが、その反面、通行者の後に舞う砂埃まで、室内に入れているため、彼女らの不快指数が下がることがなかった。
無表情なテンポで鳴り響くハザードランプの音、無慈悲なごとく通り過ぎゆく車両の音が、カーステレオから流れる音より彼女らの心身に響いてきて、さらに気力をすり減らしていた。
「ねぇ、きったかさん」
助手席で扇子を仰いでいる女性が弱々しい声で呼びかけた。
「なぁに?」
『きったかさん』と呼ばれた運転席の女性、橘髙紗央梨(きったかさおり)も、憔悴しきった細い声で答える。
「今日で、何日目?」
扇子の女性、成井美紀(なるいみき)は訊いてきた。
「え、いつから?」
「だから、バンクーバーを出発してから、何日目?」
「えーっと」
紗央梨は右手を弱々しく上げて、指折りながら数える。
「ちょうど七日目、一週間たった」
「そんなに経過したんだ。」
さらに、美紀は少し考えて
「PNEまで、どのくらいなの?」
「ほうじゃねぇ……」
紗央梨は、美紀の質問に思案を巡らせた。美紀が訊いているのはカナダ東部にある島『PEI』プリンスエドワード島(Prince Edward Island)の事で、バンクーバー東部にある遊園地『PNE』ではないことは、彼女は気づいていたが、あえてツッコミを入れて訂正をしなかった。その前に紗央梨自身がそれをする気力を持ち合わせていなかった方が良い
だろう。
「今、千五百キロくらいの地点だけど、たぶんあと五千キロくらい。でも、この調子だともう二週間はかかるんじゃない?」
「えー、まだそんなところなの!?」
美紀は声を張り上げた。
「全部で十日ほどでたどり着くって、言ってたじゃん」
「ほうじゃが、一日で通り過ぎる予定だったロッキー山脈(マウンテンズ)が、三日もかかっちゃったしね。ついでにドラムヘラーでも予定外の一日を」
紗央梨はメータパネルの走行距離をチェックし、さらに補足をした。
「バンクーバーをでて、もうすでに二千キロ近こう走っとるよ。予定より五百キロ以上もオーバーしとんよ。」
美紀は、紗央梨の説明でロッキー山脈(マウンテンズ)やドラムヘラーで自分自身がえらくはしゃいでいたことを思いだしはじめ、予定が延びた要因が自分自身にあることを感づきはじめた。
「だってさ、あんなすごい光景なんだよ!! 箱根や日光みたいなそんじゃそこら辺の山間部へいくとは訳がちがうのよ!」
美紀は、声を荒げながら言った。ちなみに紗央梨は、西日本側の人間なので、『箱根』も『日光』も行ったことがない。美紀の言い訳(解説)は続く。
「大陸がえぐられてるような、壮大にうねった造形の山々が、三六〇度パノラマに広がっているんだよ。それが、何百キロものもずっと!! 万年雪に覆われた三〇〇〇メートルクラスの山々のてっぺんには、巨大な氷河がにゅきにょきとあふれていて、その麓には大自然の手つかずの森、ところどころにあるエメラルドの湖。まさに、マザーネイチャー! 地球の偉大さを感じない?」
美紀は、ロッキー山脈(マウンテンズ)のことを語っていた。「これを一日で終わらせてどうするの!?」
「……ほうじゃねぇ」
紗央梨は、ゆっくりと呟いた。彼女は、美紀の興奮して語る姿に圧倒されてはいたが、その内容には心底同意しており、一日では足りない思うどころか、三日で終わらしたのももったいなく感じていたのだ。
――もっと,まわってみたかった。
「あんな素晴らしく、壮大な、感動的な景色に比べて、今は!」
美紀は、ことばを止め、目の前に展開する大平原とその地平線を見まわした。
「……めっちゃ、真っ平ら」
「ほうじゃね、真っ平らだね。」
「ロッキーをでてから二日もたっているのに、ずっと地平線ばかり」
美紀は、大きく溜息をつき、先ほどの興奮気味とはうって変わって、ずいぶんと気を落ち着かせ、また疲れ切ったようにシートをに沈み込み、扇子で自分を仰ぎはじめた。
「この真っ平らも、ある意味、壮大な光景だね、日本では絶対みられんと思うよ」
紗央梨は、ポジティブな意見をのんびりした口調で述べた。
「これが、これが大陸なのね……。このさき何千キロも続くってことなんだよね」
と、美紀は、さらに気を落として、弱々しくつぶやいた。それにあわすかのように、扇子を仰ぐ手首の動きがゆっくりと大らかになっていた。
「ほうじゃねぇ」
紗央梨のこのことばも、美紀に同意の意味が含まれているが、半分だけである。
――クルマが動いてくれれば、ね……。
紗央梨のクルマは、いまだ、このハイウェイから動く気配を見せない。
しばらくすると、美紀はシート上の自分の身体をずらしはじめた。
「いたた……。この姿勢は疲れた。背中も伸ばしたいよー」
美紀は身体を伸ばそうとしつつ、足もドア外へ出そうと努力するが、車の狭い室内のため、思うようにいかない。結局、体育座りのように両足を抱え、九〇度背中を倒した姿勢で、シートとダッシュボードの間に沈み込んで行った。
「美紀、前から見たらすごいかっこだよ」
「しかたがないじゃん。『チャリ吉』、シート倒れないから、こんな風になったんじゃないの。クソ狭いったらありゃしないよ。さらに腰が痛くなるー」
『チャリ吉』とは、彼女らが乗っている車の通称である。とはいっても、そう呼んでいるのは現在のところ美紀だけで、所有者である紗央梨はこの車のことを『チャリ吉』と呼ぶには抵抗を感じている。紗央梨自身は、この車の正式名称『ミアータ』と呼び続けている。その『チャリ吉』の背もたれは、構造上、ほとんど倒れない。美紀は、座面を出来るだけ前にスライドし、背もたれをできるだけ後ろへ倒していたが、それでも、通常の車の半分以下の角度しかリクライニングをしない。快適性を求めるのが間違えたと思わせるほど、この車にはシートの融通性がない。
「ねぇ、美紀」
紗央梨は、ゆっくりとつぶやきを始めた。
「なに?」
「太ったじゃろ?」
美紀は、唐突な紗央梨の言葉で沈みかけた意識を取り起こした。
「そ、そう?」
「うん、間違いなく太っとる。その短パン、ルームシェア始めた頃はそんなにピチピチしとらんかった。」
美紀は、顔を赤らめながら、ショートパンツの裾を伸ばし始めた。「気のせい、だと思うんだけどね。」
「バンクーバー出発してから毎晩ビールを飲んどるしね〜。ガソリンスタンドに止まるたんびに、ドーナッツ買って食い散らかしているし。」
「きったかさんも、食べているじゃん。なんで太らないの?」
「運転してんのはうちやからね、足も頻繁に動いているし」
紗央梨は、クラッチペダルとアクセルペダルを踏みはじめ、音を聞かせた。
「だって、わたしはオートマ限定で、『チャリ吉』を運転できないもん。」
美紀はふてくされた。「でもさぁ、一週間足らずの飲み食いで太くなるものなの?」彼女は、扇子でぱたぱたと自分の太ももを仰いでいた。
――出発する前から太ってるとは思ってたけどね。そんな、紗央梨の心の声は漏れることはなかったが、
「扇子で冷やしても、肉は減らんよー」
紗央梨はそこは声を出してツッコミを入れた。
「冷やすより、熱するべし、かな?」
美紀は器用に扇子を閉じ、
「窓閉めて、サウナにしよう!」
と、センターアームレストの前面ににあるパワーウィンドウのスイッチに手をかけた。
「それ、死ぬ」
紗央梨は、すかさず美紀の手を止めた。
「冗談って」
美紀は、嫌みのない笑みを浮かべ、また扇子を開き、自分の胸元辺りへ風を送るように仰ぎはじめた。紗央梨は冗談とはわかっていたが、妙に納得がいない面持ちで再びシートに沈み込ませ、美紀の持つ扇子を見つめた。
――美紀の扇子姿、だんだん板についてきたね
淡いピンク地和紙にさくらの花びらが描かれた沈折の扇子。花びらが描かれていない扇面には『裳美祭』と毛書体でプリントされており、少し色褪せもみえ、かなり使い古されている。昭和世代のご年配の方が日常的に縁台の上で使いっていそうな感じがただよう、明らかになにかの景品である。
この扇子、美紀が日本からもってきたものではない。先月、彼女が近所のヤードセールで見つけたものである。販売していたのはフィリッピン系の中年女性らであったが、おそらく日本のお土産としてこの北米に渡り、さらに人から人へ巡り、美紀にめぐりあったのだろう。ちょうどその時期のバンクーバーは、五月でありながら記録的な夏日が続いており、美紀がひょんなことからこの扇子を見つけた美紀は、すぐさま一ドルで購入し、その日の散歩中、ひたすら仰いでいた。えらく気に入ったのか、それ以降、家の中で使用のみならず、ネットで扇子の持ち方を調べ実戦し、語学学校、ランチ、飲み会など様々なシーンで使い込んでいった。
他の日本人の留学生から、おっさんくさいと声も上がっているが、
「カナダで良いところ知っている?人と違うことをしても、堂々としていれば、それがクール(かっこいい)と言われちゃうんだよ。たとえ、それがオヤジくさくても」
と、美紀はそんなネガティブな意見を軽く一笑している。紗央梨は、その美紀のスタンスをかっこよく思う反面、
――これが歳をとることなんじゃろうか?かわいい美紀ちゃんが、おばさんくさくなっているような……。
美紀は、女性から見ても男性からも見ても、見た目は非常に魅力的である。背は低めだが、小さな顔のため非常にバランスがとれた頭、胴、手足の長さと、豊満な胸とお尻、艶がある茶色に染められたカールかかった、肩まで届く髪、大きなくりっとした瞳。多くの男性を魅了するだろう。その彼女が、おじいさんくらい扇子を愛用して、人目を気にせずに仰ぎはじめる。
紗央梨は残念な気持ちもあるが、美紀がその扇子をお気に入る気持ちには同調する面がある。紗央梨自身、現在のっている深緑の車がそんな感じなのだ。
――一九九六年モデル Mazda MX-5 Miata
これが今、紗央梨と美紀が乗っている車である。日本ではユーノスロードスターで呼ばれていたクルマの北米仕様で、二十年前に作られた。この古くさい車を、紗央梨は、ひょんなことで見つけ、なぜか惹かれ、入手し、修理をしてもらい、こうやってドライブをしまくっている。これは美紀が扇子を愛用する気持ち深緑のに似ている面もある。公道で走れるようにするまでに手続き・修理等にかかる費用、日常的に乗るための保険代、燃料などの維持費も、決して安くない。それにもかかわらず、彼女はこの車のオーナーになった。
紗央梨は、決して車マニア・走り屋の部類の人間ではない。日本にいたころも全く興味を持たず、軽自動車で十分という考えの人間だった。公共交通機関が充実しているバンクーバー内に住むだけであれば車を保有しなくてもほぼ生きていける。ましてやワーキングホリデーメーカー、留学生にとっては、車の所有は不必要であり金の浪費だけを進めるものであると、大多数の人間はアドバイスをする。それには、紗央梨は大いに同意にしていたが、そんな意見・主張に反しながら彼女はこの深緑の小さいスポーツカーを所有するにいたってしまった。なぜ、この車にこんなに惹かれたのか、彼女もわからずじまいだが、ただ言えるのが、紗央梨は、この車の所有したことを後悔はしていない。
――この車があったから、ここまで来れたし、素晴らしい景色を堪能させてもらった。
そんな気持ちが、彼女の中ではいっぱいだった。
ただ、この車のために、今、このハイウェイの路肩で立ち往生していることは、否定できないでいた。
彼女は、少しため息をついて再びハイウェイを眺め始めた。前面には、ハイウェイが地平線に吸い込まれるように一直線に延びている。雲ひとつない晴天、太陽は非情にも照りつづける。
二つのコンテナを連結させた大型トラックが、猛スピードで彼女らの車のそばを通り過ぎていく。砂埃が、窓をとおして、紗央梨の顔に降りかかる。しかし、彼女にはそれを振り払う気力はない。
そのトラックが地平線へ消えていくころ、美紀が、細い声で
「ねぇ、レッカーっていつ来るの?」
と“再び”訊いてきた。