第一話 : 大草原の二人 ・ シーン8
町の近くになると、目の前の視界には、建物と街路樹などが入ってくるようになってきた。踏切がみえてくると、彼女らと深緑のミアータを載せたレッカー車は一次停止もせずに、寂れた線路の上をゆっくりと横断した。この踏切の遮断機は、一日のうちほんの数回くらいしか動いしていないらしく、寂しい感がおもいっきり漂っていた。
レッカー車が踏切の上に横切るとき、彼女らは右手の方、高さ三十メートルくらいの大きさの円柱形を三・四本並べていっしょにしたようなコンクリート製の建造物を見つける。その建物すぐ横には線路が走っており、足下にはタンク型の貨物列車が並んでいた。他の建物があまりにも低いので、この高さをもつこの建造物は町の中でかなり目立ち、ランドマークの一つにもなりえそうな存在感をもっていた。
美紀は、その建物の形状とその高さをみて、驚きの小さな声を漏らしていたが、紗央梨の方は、珍しがらずにしげしげと眺めていた。紗央梨には、それが穀物を貯蔵するサイロであり、そこで貨物車に積み込みのための施設も併設しているのだと認識していた。日本では通常『カントリーエレベーター』と呼ばれ、北米では『Grain Elevator(グレインエレベーター)』と呼ばれている。この町近辺は、北米の食料庫とよばれるカナダプレーリーの一部であることを、このコンクリート製のカントリーエレベーターは示していた。
踏切を通り過ぎると、左手に『CO-OP』のショッピングセンターとガソリンスタンドが見えてきたが、レッカー車はそれらを無視しながら、その手前の交差点で右に曲り、わさわさと生い茂った街路樹の間を抜けるように町の中へ入っていった。
街路樹の隙間から建物がぱらぱらとのぞかしていた。さらにその隙間に町の奥へ入る通りが見えた。レッカー車は、いくつかの通りの角を通り過ぎていく。紗央梨は、作業員の腕の向こう、運転席窓に映るそれらの通りを、遠目で眺めてみた。それらの通りにも低い古めの家屋が続いており、平日の昼間だというのに車両・人通りはまばらで寂れていた感があったが、雲がない陽気な天気の下のためか、紗央梨には垢抜けた陽気な雰囲気の町という印象を持っていた。
助手席側窓から町をのぞく美紀には、通りの右側、商用・産業施設が建ち並ぶ風景を目にしていたが、どの施設も小規模で小さめの建物で数十年の歴史を感じさせる物ばかりだった。その建物の背後には、彼女が先ほど踏切横断の際に見た高くカントリーエレベーターがそびえ立っており、彼女が眺める流れる景色に特異な印象を与えていた。
四本ほどストリートコーナーを通り過ぎるころ、紗央梨の気力の貯蔵庫はそこが見えそうであった。CAA作業員が次の交差点の角にある建物を指さし、あれが目的地だと彼女に教えてあげた。紗央梨は、その指の方向にある建物を見つめた。コンクリート製でベージュでペイントされた建物で、三つのシャッタードアがあり、広めの駐車場を備えていた。シャッタードアは全開で、遠くからでも中の様子がよく見えるようになっており、すでに車両が一台入庫しており、ジャッキアップされていた。広めの駐車場には三台ほど車両が駐まっており、おそらく従業員のもの、もしくは修理待ち、修理済みのものと思われる。
レッカー車は交差点でスピードを緩めると、そのまま左折するように前から一気にその駐車場に着けて停車した。その駐車場が広々しており、シャッター前が何もないじょう隊にしろ、紗央梨のミアータを牽引しながら交差点から、何も修正も無しでこの駐車場にスムーズに入り込んだ事に、彼女は少し驚きを覚えた。
作業員は駐車ブレーキをしっかり引くと、到着しここにミアータを降ろすことを彼女らに伝えた。美紀はそのことばを確認すると、真っ先にドアを開けて、颯爽とレッカー車から降り立った。紗央梨も、そのあとを追うようにおりてきた。
「うーん! やっとついた!」
と、美紀は、かわいい声を上げながら、腕を天空に伸ばし精一杯背中を伸ばし、肢体をさんさんと輝く日光の元にさらしていた。地上に降りて外気にふれた紗央梨も、思いっきり深呼吸をし、新鮮なカナダ・プレーリーの大地の空気を味わった。彼女にとって、大地の空気が不快なにおい(オヤジ臭)を一気に蹴散らしてくれため、その開放感の感動は大きかった。
美紀も、紗央梨に合わせて、深呼吸をしたが、すぐに鼻と口を押さえ、あたりを見渡しながら、
「まだ変な臭いがするような……」と呟いた。
紗央梨は、その美紀の言葉で鼻をかいでみた。確かにほのかな穀物畑と牧場っぽい匂いが紗央梨の鼻に着いたが、彼女には全く気にならないほどであった、というより、これがカナディアンプレーリーの特徴だろうと納得していた。
町の周辺が大草原であると同時に、その分だけ巨大な牧草地、穀物畑が存在しているのである。長い冬が過ぎ気候が温暖になれば、それらの匂いも強くなる。特に今日のように平穏より暑く、さわやかに晴れ上がった日であればなおさら。さらに、この町の周りには、それらの臭いを吸収する大きな山、森もない真っ平らな草原地帯に、ビル群も小さな町。その臭いの発生源が町から遠く離れているとしても、簡単に町まではたどり着いてしまう。
街中育ちの美紀には、慣れない不快な臭いであり、敏感に感じ取っていたのだ。
逆に、紗央梨は慣れないオヤジ臭をレッカー車内で敏感に不快と思い、いくども経験のある農業系の匂いを全く不快と思わない。
――美紀はオヤジ臭に慣れているんだ……、紗央梨はそんな気持ちを込め、
「そう? うちはきにならんけど」
笑顔で答える。――ハイウェイで美紀が罵倒していた男の中に、絶対中年のおっさんがいただろうなって、紗央梨は勝手に推測していた。
その笑顔をみた美紀は、なにか納得できない感じで、
「そうなんだ、私もそこまで気にならないんだけどね……」
と、右手を鼻から離して下ろした。
CAA作業員は、車から降りるとすぐに、ミアータをレッカー車から下ろしていた。紗央梨と美紀は、その光景を眺めながていた。建物のガレージから、油汚れまみれの作業着をきた褐色肌の壮年の男性が、のんびりとめんどくさそうに歩いてよってきた。紗央梨からも美紀の目から見ても、この人がこの修理工場のメカニックとすぐにわかった。彼はCAA作業員と軽く挨拶をして、ミアータについて聞き始めた。彼はその会話で、このクルマのオーナーは紗央梨と知ると、ミアータの後ろを回りながら、彼女に近づき話しかけてきた。
紗央梨は、彼女が知る範囲のクルマの知識、英単語で状況を彼に説明した。彼はゆっくりとうなずきながら、紗央梨の言葉を理解しようと努力している姿勢をみせてくれた。紗央梨は、安心感を覚えはじめていた。
レッカー車からミアータが完全にはずされると、CAA作業員は彼女らに余計な思考を与えることもない手際の良さで機材の片付けに入った。彼は片付けがすませると、彼女らへ、仕事は終わったことを伝えた。紗央梨は、「サンキューソーマッチ(ありがとうございます)」って、お礼の言葉をかけると、彼は、
「Your welcome! It’s my job」
と、笑顔で応答する。彼は、手を振りながら手短めに別れの挨拶を放しながら、すばやくレッカー車運転席にのりこみエンジンをかけると、素早くミアータと他の車両をすり抜けながら、先ほど来た道を颯爽と消えていった。
紗央梨と美紀は、レッカー車を見送りながら、あまりにも余韻も残さない感じで、レッカー車が去っていたので、逆に呆然としていた。
「えらくあっさり終わったね……」
美紀が呟く。
「うん、ほうじゃねぇ。あの人、うちのBCAAカードすら確認しとらんかったよ」
紗央梨は、あの作業員から終始書類の記載、BCAAメンバーの確認などが全くなかったのも思いだした。
「え? まじ?」
通常レッカー車を頼むと、作業終了されると作業代をすぐに請求される。支払いともに書類にサインをすることもある。実際は、紗央梨がBCAAに連絡をするときにクルマのナンバー、車の特徴、場所などを伝えており、実際の現場とそれと相違がなく、また作業内容が無料サービスの範囲内であったので、各種確認事項が必要なかっただけなのである。クルマのことをあまり知らない美紀でも、そのBCAAなどのロードサービスの利便性に驚きを隠せなかった。
紗央梨と美紀がレッカー車を見送っている間、メカニックの男性はミアータの運転席ドアを開き、センターピラー下枠にあるモデルプレートとダッシュボード上部にあるVIN(車体番号)を確認し、それらの情報を作業ノートに記載していた。それをすませると、ボンネットオープナーのレバーを引き、ドアを閉め、ミアータのフロントノーズへ回った。手慣れた感じで、ボンネットを開き、彼はラジエータ周りとそのタンクをしげしげと見つめていた。
彼女らのレッカー車見送りが終わるころにメカニックの男性はある程度のチェックを終え、ミアータのボンネットを閉じた。ストリート歩道で小話をしていた紗央梨と美紀に、声をかけてきた。彼は紗央梨に、ジャッキアップして車体を下からチェックしたいが、ガレージがまだいっぱいなので一時間待ってくれないかっと、訊いてきた。美紀もその会話を紗央梨のそばで聞いていた。
紗央梨と美紀は顔を見合わせると、
「昼時だし、小腹空いたし、待っている間にランチでも食べに行こうよ」
と、美紀は提案した。紗央梨も、それに同意し、メカニックにどこかに食事をして、一時間後に戻ってくると伝えた。彼は、それまでにはチェックをすませておくと、約束をした。作業ノートに、紗央梨の名前と携帯番号を記載すると、「See you soon」っといって、事務所へゆっくりと戻っていった。紗央梨は、何かをいいたそうだったが、無言でその背中を見送った。
駐車場には、紗央梨と美紀の二人だけになると、
「『お願いします』って、どう英語で言うんじゃろ?」
美紀に質問した。
「きったかさんにわからないんだったら、私にわかるわけないじゃん」
美紀の答えは、至極もっともなものだった。紗央梨は、質問したことに後悔しはじめたが、美紀の言葉は続いた。
「そういうときは、そのまんま、『おねがいします』って、日本語でいっちゃいなよ。べつに向こうも気にしていないよ。」
「ほうじゃね」
と、紗央梨は溜息ととも漏らし、美紀らしい助言に妙な納得と安心を得てしまった。
「さて、どこへいこう?」
紗央梨が言うと、
「あっちの方を見てみるよ」
と、美紀はとおり角向こう側へ駐車場を横切るように歩いていった。
駐車場中央の色褪せた屋外照明柱が二本立っているコンクリートのベースを超えるとき、美紀は立ち止まり、その照明柱を見上げながら、
「きったかさん、この街灯はおかしな所にあるよね。街灯なら、もっと通りのそばにない? 土台も変に大きいし」
美紀は、訊いてきた。美紀は、屋外照明柱を街灯と解釈していたらしい。
紗央梨もその言葉で、事務所の入り口と通りの歩道のど真ん中に設置されている照明柱を見つめた。その間隔は駐車場にしては狭いことに、彼女は気づき、あらためて事務所とその周りを見つめなおした。紗央梨は、この敷地内のレイアウトに一つの結論を結びついた。
「これ、ガソリンスタンドじゃ」
「ガソリンスタンド?」
美紀が聞き返した。
「ほら、美紀が立っとるそのベース、ガソリンスタンドの機械があったんじゃない?」
紗央梨の指摘通り、機械が設置してあったのを撤去した後がそのベースにはあった。
美紀もあらためて、自動車修理工場の建物を見わたしながら、
「あそこにガレージがあって、オフィスか、たしかにガソスタだ」
紗央梨の回答に納得した。「もし、残っていたら相当レトロなガソスタになっていたかもね」
美紀は錆だらけの照明柱をしげしげと見つめた。彼女の目には、きっと活躍していたころの風景が目に映っているのだろうっと、紗央梨はその時感じた。
紗央梨はふり返り、この場所の周りを見わたす。北側を見ると、カントリーエレベーターが彼女の視界に入ってきた。真っ平らの風景の中に、ぽつんと浮かぶ窓もない巨大コンクリートの建造物。幾年月を重ねているが、自動車工場の建物より新しく、今も、貨物列車に収穫物を搬入しており、まだ数台の貨物車両が順番を待つため後ろに控えていた。――その建造物は、ここの撤去されたガソリンスタンドとは違い、今もその機能性を失わず逆に拡大している。あらためてカナダの内陸、農業地帯にたどり着いていることを実感し、地元のこまごまとした田園と縮小をつづけている日本の農業と違い、カナダの農産業なにもかも広大で、その規模を失わせていない ことを、彼女はひしひしと感じとっていた。
「きったかさーん」
美紀が、紗央梨を呼んだ。彼女はすでに駐車場の東側、通り角の向こう側そばにある歩道に立っていた。南側を指さして、
「こっちの方に店がいくつかあるよ」
と伝えた。
「うん、ちょっとまって」
紗央梨は、我に戻り、美紀を追いかけるように駐車場を横切った。