第一話 : 大草原の二人 ・ シーン12
紗央梨は、目の前のカウボーイハット美女が初対面でなぜ私に用事があるかもまったく見当もつかず呆気にとられていたころ、後ろのオフィスへのドアが開いた。ここのメカニックの男性が現れた。先ほどまで、紗央梨とコン詰めた会話を繰り返してた男性である。彼は、すぐさま、カウボーイハットの女性に気づき、
「Hey! Jane! (やぁ、ジェーン)」
と声をかけた。その女性も、若干トーンの高めでのんびりした口調で、
「Hi, Tony! How’re you doing? (ハーイ、トニー。元気?)」
彼女は返した。そのまま、二人は会話をつづけていった。メカニックの男性の名前は、『トニー』で、この女性の名前は、『ジェーン』といい、どうも、二人は顔なじみらしい。圧倒的に『トニー』の方が年上であるが、ふたりはフランクに掛け合って、挨拶がてらの会話を、目の前の日本人の女子二人をそっちのけでつづけていた。
紗央梨と美紀は、その様子を眺めていたが、彼らの口調があまりにも速く、ついていけないでいた。ジェーンはのんびりしたしゃべりであったが、カナダ人(カナディアン)の大人同士になると、自然に速く聞こえ、彼女らには聞き取れないレベルだった。ただ、彼女らは、こちらの『ジェーン』と『トニー』は顔なじみであるということは、把握していた。カナダ人同士では、軽い挨拶後の世間話が割と長くなる傾向がある。この二人も漏れずにその傾向にあった。
美紀は、紗央梨がオフィスに出たときに私に言いたげだったのを思いだし、紗央梨の腕を指でつついた。
「きったかさん、きったかさん。さっき、何か言おうとしてなかった?」
「あ、そうなんよー。美紀、どうしよ! ばり、やばいよー」
紗央梨は、先ほどのオフィスでのメカニック(トニー)との会話を思いだし、あわてはじめた。
「『ミアータ』くんが、今日中になおらん!」
紗央梨は、美紀の肩をつかみ、強く言いきった。美紀は、その紗央梨のことばをある程度予測していたのか、あまり驚きもせずに、観念したかのように落胆し、
「あー、やっぱり……」
美紀は、オフィスで紗央梨がメカニック(トニー)に必死に聞き込んでいた様子をみて、ある程度悪い予測をしていた。
紗央梨は、みきの反応が薄いことに拍子抜けしたが、とりあえず、トニーから聞いた話を要約して説明しはじめた。
「冷却水(クーラント)が漏れいて(リークして)たんじゃが、そこがホースじゃのうて、冷却装置(ラジエーター)本体に大きな(ラージ)亀裂(クラック)が入っていたんじゃと! もう、修復(リペア)はダメじゃけぇ、冷却装置(ラジエーター)本体丸ごと交換せんといけんって……」
重要な英単語がきいたまま、ほぼそのとおりにカタカナ言葉に訳し、それを少し興奮気味の広島弁まじえたかんじの説明で……。
「きったかさん、日本語でしゃべって」
と美紀は、紗央梨の説明を遮るように要望を送った。美紀には、英語圏での生活も、広島弁しゃべる人との生活も、この年になって初めてである。英語力も広島弁理解力も、初心者に等しい。さらに、疎い自動車用語ばかりである。
その言葉で、紗央梨は美紀の頭の上に無数の『はてなマーク』が浮かんでいることを、感じ取り、
「ごめん。要は、冷却装置が完全に壊れとって、交換部品が明日の午後に来るんじゃと」
ようやく、美紀は状況を把握できた。
「えーっと、じゃ、わたしたちはこの町に足止めなんだねー。いいじゃん、一日くらいー」
美紀は、けろっとした感じでこたえた。彼女は、この町で一晩泊まることにそんなに深刻さを感じていたなかった。
「なにゆうとるん?! レジャイナでの泊まるところ、キャンセルせんといけんのよー! たぶん、キャンセル料金かかるし、またここで宿泊費がかかるんよー。それに、『ミアータ』くんの修理代がー!!」
紗央梨のほうは、その逆で、深刻さが大きく、出費が予想外にかさむことに頭をかかえるほど悩まされていた。
「じゃ、早く手配をしないとね。きったかさん♩」
「その手配をするの誰じゃと思ってんの?」
紗央梨は美紀を睨んだ。
「き、きったかさんー……?」
美紀は、苦笑いを浮かべた。そのことばの裏には、「私の英語力じゃ無理だもん」というメッセージが含まれている。
「ちっとは、美紀も電話で手配の苦労を味わいんさい!」
紗央梨は、美紀の肩をぎゅっと握りしめた。「うちより、長く英語学校行くつもりだったんだから、もっとトライせんと……」
「痛い痛い、きったかさん……」
「Hey! Girls! (おい、お嬢ちゃんがた)」
とトニーが紗央梨たちを呼びかけた。ジェーンとトニーの会話も一段落をついていたようだ。ジェーンに、紗央梨たちへ提案(オファー)があるそうだという。
ジェーンは、トニーの横で万遍な微笑みを浮かべ、紗央梨たちを見つめていた。ちょうど紗央梨からのジェーンの位置が大きく開いたシャッタードアの方であり、夏日の照らされた光景が逆光のようにジェーンの背後から差し込んでいた。紗央梨と美紀は、その光景がオーラに包まれた女神様が立ちつくしているかのように感じ取っていた。
その微笑みは、本当に女神なのか、それとも美紀のように小悪魔的なのかは、紗央梨には判断できずにいた。
とりあえず、その三十分後、彼女らはスーパーマーケットにいた。
そのスーバーマーケットは、紗央梨と美紀がミアータをレッカーしている車とともに街へ入ったとき、線路を越えたすぐ左手にあった『co-op』である。こじんまりとしたスーパーマーケットではあるが、店前には約五十台ほど駐車できるスペースを完備している。日常の食料品、雑貨品が不自由なく手に入るほど品をそろえている。店前面の右側に入り口があり、外と店内との間には二重に自動ドアが設置されていた。その付近に、ショッピングカート・かご置き場、さらにコミュニティ掲示板が壁に備えられていた。
紗央梨はその入口で、スマートフォンを左手に、日本から持ってきた手帳を開いて右手に、右往左往と歩き回っていた。そのスマートフォンで英語で喋っているのだが、彼女の言いたいことを伝えるために、顔の表情、腕動きがオーバーアクション的に補おうとしていた。もちろん、そんな表情は電話の向こう側の人間には伝わらない。ただ、その滑稽な様が、通り過ぎる人々に和やかな奇妙さを与えていた。
その電話の相手は、紗央梨たちが今晩の宿泊予定だったレジャイナのとある安宿のスタッフ。もちろん、流ちょうな英語をしゃべるカナダ人(カナディアン)女性。おそらく、二十代前半。紗央梨は、クルマがトラブって、その街(レジャイナ)にたどり着けないから、予約を変更したいという旨を必死に伝えてようとしていた。
日本語にすれば、どうと言うことなく一分もかけずに終わるような簡単な文章であるが、紗央梨は英語で一〇分弱もかけていた。当日の急な変更であるため、紗央梨は『キャンセル料金』がかかるのではないかと言う心配があり、それをかからないようにすればどうすればいいか試行錯誤しながら、当日の宿泊日の変更を行おうとしていた。
『ソー(そういうわけで)……」
紗央梨は少し一息つき手帳を閉じて、
「キャンナイ・チェンジ・アワ・ブッキング・デート(私たちの予約日変えてもいい)? メイビー・トゥモロー(たぶん、明日とか)?」
おそるおそる訊いた。この時、紗央梨の心拍数は10パーセントほど上がっており、手のひらにはいつもより多めの汗がにじみ出ていたことであろう。宿泊先のスタッフの次の言葉が発生されるまでの一秒ほどの間は、六十倍ほど伸ばされたかのように感じた。
「OK(いいよ)」
羽のような軽い返事が紗央梨の耳に響いた。あまりの軽さに、彼女は思わず日本語で聞き返した。
「はっ?!」
「You comin’ here tomorrow, right (明日ここへ来るんでしょ)? That’s ok(大丈夫よ). We’ve got your change. (受けたまりました。)」
ざっくばらんな軽い声が、スマートフォンのスピーカーに響く。とりあえず、予約日が明日になったのは、紗央梨は把握した。
「あ、あ、え、エニー・キャンセレーション・フィー(キャンセル料金ある)?」
紗央梨は一番の心配事を尋ねた。
「Don’t worry about that(心配しないで)! We don’t charge it. (かからないって)」
と、高らかに笑いながら、心配事を否定した。電話越しでその女性は、紗央梨のクルマが早く直ることと、安全運転を祈りながら、「See you tomorrow(また明日)!」を締めくくって、電話を終わらせた。
「シーユー……」
紗央梨は、呟きながら、呆然とスマートフォンのスクリーンを見つめていた。
——かるっ!
今回の当日の予約日変更に、手数料がかからなかったのは、先ほどの電話のスタッフの配慮なのか、もともとこのホテルには存在しなかったのかは、紗央梨にはわからなかったが、とりあえず、彼女が心配していたわずかであるが出費が抑えられた。
彼女は大きく安堵の息を吐きだし、スマートフォンと手帳を斜めがけポシェットにしまい込んだ。
それと同時に、店内をぶらぶらしていた美紀が、小走りで、目を輝かせながら、少し興奮気味で、紗央梨の元へやってきた。
「きったかさーん!」
「あ、美紀。どうしたん、何か見つけた?」
紗央梨は、すぐさま、彼女が何かを見つけたのを把握した。そのなにかは笑数ではいるが、ネガティブなことではないことは、目の輝きから確信はしていた。
「すごいよ! きったかさん!」
紗央梨の元にたどり着いた美紀、息が荒めであり、その興奮を隠せないでいた。で、彼女がつづけた言葉がこうだった。
「ここ、英語しか聞こえない!!」
美紀は目をきらきらさせながら、その偉大なる発見を紗央梨に見せつけようとしていた。まるで、飼い猫がネズミを捕ってきて、家の人に見せつけるように。
紗央梨は、圧倒されつつ、あきれつつ、言葉を返す。
「ここ、カナダじゃって」
彼女らがいるところは、カナダの英語圏文化のエリアである。英語しか聞こえないのが普通であると、紗央梨は思っており、美紀が発見したことがあまりにも当たり前であるように聞こえて、何をそんなに喜んでいるのか、理解できずにいた。ましてや、今宿の予約日変更の電話で、英語で説明であくせくしていたところだった。
「わかってるよ、きったかさん。だから、カナダなのに、英語しか聞こえない!」
「何をゆうてんの?」
「もう、こっちきて」
美紀は、紗央梨の手を引っ張って、店内を巡った。店内には、十数組くらいの客が、ショッピング中であった。それぞれが、色々と会話を講じていた。商品の品定め、今晩の食事の話、友人の話、テレビの話……。美紀は、その他のお客の近くで、紗央梨を連れて行って、耳を立てるようにしてもらった。
確かに、みんな英語で、しゃべっとる。しかも、流暢な。そりゃ、カナダ人だし……。
紗央梨は、大きく溜息をつき、諭すようにいった。
「みんな、英語でしゃべってんね。でも、ここカナダだし、それが当たり前……」
ここで、紗央梨は違和感に気づいた。それは、自分自身から発した言葉からじわじわと思考の中ににじみ出てきていた。